音楽から蘇える記憶

朝、You Tubeで Diana Krall の曲を流していると、聴き覚えのあるWalk On By と言う曲が流れて来て、ハッとしました。
40年以上前、大阪外大(現 阪大外国語学部)英語学科から阪大歯学部へという文系から理系への、常識的にどう考えても無謀な挑戦を、若さのエネルギーを集中して成功させた自分へのご褒美に買ったのが Dionne Warwick のカセットテープ=アルバムで、Walk On By はその中の記憶に焼き付いた一曲でした。

Dionne Warwick

(昔、アルバムがカセットテープで売られていた時代があったなんて、今時の若者は信じられないでしょうね。40年前の1972年当時、繰り返し聴いたこのシンガーの事を今調べてみると、Walk On By は彼女の最初の大ヒット曲だったようです。それ以来、彼女は、作曲家 Burt Bacharac 作品の歌い手として連続したヒットを飛ばします。Burt Bacharac は I will never fall in love again 、カーペンターズのカバーの方が有名になった Close to you (日本語タイトルは『遥かなる影』・・なんていい加減な和訳だ!) など、1962年から70年代にかけて作詞家の Hal Davidとのコンビで多くのヒット曲を作りました。 映画『明日に向かって撃て!』の主題歌となった Raindrops Keep fallin’ On My Head は余りに有名です。日本で言えば、山口百恵やピンクレディの曲を作った戸倉俊一みたいな感じかな。)

どうやら、その時、私が自分へのご褒美に買ったカセットアルバムも彼女がバカラック作品を歌った特集アルバムだったようで、彼女の小鳥のさえずりのような歌声を聴くと、当時の自分の気持ちがまざまざと蘇って来ました。それは今から振り返っても、若い人生の全てを賭けた大きな挑戦を成功裏に終え、ホッと安堵し、充実した気分の日々だったと思います。

その挑戦は2年がかりで挑んだものでした。外大の4年生になったばかりの春、唯一の家族だった母親をガンで亡くしたことで、私は自分の人生を根底から見直すことになり、そこから新しい挑戦への取り組みが始まりました。

わずかに残る母とのツーショット写真

さらに遡れば、小学生時代から母一人子一人の家庭の苦しい生活の中で育った私は、高校3年の受験生だった春、母の検査を担当した内科医院に一人呼び出され、唯一の家族である母のガン告知を受けたのでした。18歳の若者には余りに重い告知でした。 手術日が私の大学受験日とバッティングすれすれという大混乱の中、私は進学指導の先生からOK判定をもらっていた第一志望の大学に入れず、滑り止め意識の対象だった外大に入ることになりました。しかし、英語を単なるツールとしてだけではなく、英語史、音声学、言語学、英詩・英文学、ビジネス英語、国際関係論、国際法・・等々、浅く広くでしたが、総合的に学ぶカリキュラムは面白く、それなりの学生生活を楽しみました。手術に成功した母との二人暮しも私の奨学資金(もう名前も記憶していない国際団体のものも含め3つ)と、種々雑多なアルバイトでしのぐことができ、母と二人の平穏な暮しでした。

外大時代の唯一の写真(後列右3番目)

しかし、その平穏な日々は長くは続かず、4年生になり、いよいよ就職活動が始まる直前に再発による母の死を迎え私は天涯孤独の身になってしまったのです。

さて、どうするか、<一日も早く社会人として人並みの収入を得て、長く苦労した母を安心させる>という当面の目標を無くしてしまった私は、人生を一から考え直す事態に直面しました。その時、それはある意味、若さの特権というべきか、私は『目先どうするか』ではなく、『そもそも自分は人生で何をしたいのか?、どんな人生を生きたいのか?』と自問し、その答えを演繹的に引き出そうとしました。もし、私が普通の経済的余裕のある家庭に生まれていれば、私はきっと文系分野の研究者の道を選んでいたでしょう。しかし何の経済的裏付けも資産も無い人間が、お金儲けとは無縁の研究者の道を選ぶのは余りに厳しい。かと言って、このまま社会に出て日々、組織の歯車として仕事に追われる道は選びたくない、という強い気持ちがありました。

で、私が出した結論は、もう一度大学に入り直し確たる経済的基礎を整えた上で自分の望む生活を持とう、という遠大なものでした。若気の至りとも言うべき壮大な計画でしたが、私にはそれなりの目算がありました。当時(高度経済成長の真っ只中の教育熱の高まりの中で)私は10軒ほどの家庭教師先を抱え、大卒初任給以上の収入を得ており、二つ目の大学生活を送るための経済的基盤は見通しが立っていました。問題は、どの分野を学ぶのかということでした。普通の学部では卒業後の就職問題があり、年齢的に難しい問題に直面する可能性があります。それで考え抜いた結論が『歯学部進学』でした。歯科医師の資格を取れば、卒業後のキャリアを心配する必要は無い。卒業後は、そこそこ働いて、残る自分の時間で自分のやりたいことをしよう、というものでした(何と言う甘い見通し!)。

しかし、その方針を決めた後、私は直ちに行動を開始しました。最終学年の4年生で、卒業に必要な単位は取得し終え、卒業論文だけをあえて出さず、自主留年することに決めたのです。次の5年目の自主留年の1年間は英文での卒論作成のみを課題とし(この一年は、阪大入学後、外大での取得単位が認められて、教養課程の一年短縮という大学の柔軟な計らいで取り戻せました)、あとの全ての時間を歯学部受験に注ぐことにしました。リスクの高いイチかバチかの挑戦でした。理系学科の受験に必要な数学・物理・化学を自習するのは高いハードルでしたが、何とか頑張り通し、母の死から2年後の1977年の春、阪大歯学部の合格発表の掲示板に自分の番号を見ることができたのでした(英語で点数を稼いだ、という噂もありますが・・)。

大きな挑戦を終えた安堵感、大きく開けたと思える夢一杯の未来図、あの時の満足感に包まれた日々の感覚が Dionne Warwick の歌声とともに蘇って来ました。
当時の私の人生のバランスシート(貸借対照表)を描けば、右側(貸方)の『純資本』に対応する左側(借方)には『若さ』という無形固定資産があるだけで、有形・無形を問わず、それ以外の資産項目は見事にゼロ、というシンプルなものになったでしょう。

しかし、あの頃抱いた未来の設計図を自分は実現できたのだろうか、あれほど過酷な試練を乗り越えたはずの自分は、自分の人生を計画通り実現できたのだろうか、と問い直す声が湧いて来ます。思えば、前稿(『シニア層の都心回帰』)でも書いたような、若い頃の苦労の裏返しのようなマイホームへのこだわりやその後の顛末は何やら我が人生のbyway (脇道)*だったような気がしないでもありません。そして、ひょっとすると今、取り組み始めた大学院生活によって案外、自分は青春時代の遠大なプランの到達目標に近い所を歩いているのかもしれません。

Dionne の歌声が、歯学部入学の夢を果たした頃の安堵感に満ちた日の気分と分かち難く結びついているとすれば、その前の2年間、母を亡くした後の一人暮らし時代、重いプレッシャーのもとでの過酷な歯学部受験時代の日々とともに思い出すのは、 Simon & Girfunkel の繊細なハーモニーです。大型のウチワのような LP 全盛時代、彼らの歌声は私の生活の一部でした。

Simon & Garfunkel BEST ALBUM

一人暮らしを始めた(当時、文化住宅と呼ばれた長屋住宅の)今で言えばワンルーム部屋での唯一の慰めは、彼らの歌声を聴くことでした。彼らの代表曲を収めた All about Simon & Girfunkel という2枚組のベスト=アルバムは、文字通り擦り切れるまで繰り返し聴き、再生機器が最早無い今も、そのLPは手元にあります。繊細なハーモニーに満ちた彼らの曲はどれも好きでしたが、やはり、どの曲より印象に残っているのは、Sound of Silence とBridge over Troubled Waterでしょうか。Sound of Silenceはデパートの売り場を歩いていた時、初めて耳にして、その美しいハーモニーに一瞬立ち止まって動けないほどの感動を感じた事を今でも覚えています。しかし、やはり当時の暮らしと切り離せない深い思い出があるのは、Bridge over Troubled Water ですね(演奏はこちら)。『明日に架ける橋』として、日本でも大ヒットしました。暖かさと情感に満ちた歌詞の中でも、どういうわけか、下記の

Sail on Silver girl, Sail on by/ Your time has come to shine/ All your dreams are on the way/ See how they shine/ If you need a friend/I’m sailing right behind
(銀色に輝く少女よ、船出しよう / 君の輝く時が来たんだ/ 君の夢の実現はもう間近だ/美しく輝くんだ/ もし仲間が必要なら / ボクがすぐ後ろをついて行くよ )

の部分では思わず涙がこぼれそうになることもありました。つらい孤独の日々を彼らの歌声が癒してくれたと思います。

振り返れば、私の学生時代の各時期はそれぞれの音楽と強く結びついていて、その曲を聴くと、当時の生活がまざまざと蘇ります。(臨床研修とアルバイトの両立に苦心した歯学部時代は、 Carol King というシンガー・ソングライター <代表曲は、やはりYouv’ve got a friend でしょう。演奏はこちら>に熱中し、彼女の全アルバムを揃えました。その時代については、また機会があれば投稿します。)

私の孤独の日々を癒してくれた音楽の思い出は数多くあります。とは言え、友人がいなかった訳ではありません。長い学生生活の中で生涯の友も何人か出来ました。

臨床研修の病院で スタッフたちと
歯学部最終学年 全財産を投入
して敢行したヨーロッパ旅行
Homestay先のご夫婦と

ただ、残念なのは、そのうちの一人が歯科分野での博士学位の取得を目指して社会人大学院に入学したものの、何やら複雑なアカデミック=ハラスメントに巻き込まれ、そのストレスで脳血管障害を発症し、その回復を待たず乗馬中に再発して、そのまま帰らぬ人となってしまったことです。私は彼の学位取得の試みには懐疑的でしたが(学位って何の意味があるの?)、よもやそんな結果になろうとは、残念でなりません。さらに、もう一人の親しかった友も、趣味で始めた週末農園作業に力が入り過ぎ、農作業後帰宅して、やはり脳血管障害を起こして、今も立ち直れないようです。

あらためて思うのはシニア=ライフの取り組みは、決して自分に過度のプレッシャーをかけず自分のペースを守りながら楽しむ気持ちと余裕を忘れない心がけが必要だろうという事です。若い頃の挑戦のように、どうしても、という状況ではない訳ですから。ご同輩、ゆっくりゆったり生きましょう。

(おまけ)* 『byway 脇道』

上記の文章を書いていて、byway (脇道)という言葉が自然に頭に浮かんで書いたのですが、おそらく前投稿(大学検診で一大事)の中で、Andy WillamsのMy Way

https://youtu.be/VKhopM599-Q

の中で出てくる

I planned each charted course
Each careful step along the byway
And more, much more than this
I did it my way
私は自分の人生をきちんと計画し
どんな脇道も丁寧に歩いてきた
でも、どんなことより、自分は
自分らしく生きたことを誇りにしたい

の中の byway が頭の中にあって自然にこの英単語が浮かんだのだろうと思っていましたが、もう一つの曲の歌詞の中でも印象的に現れていて、記憶に残っていたらしいことに気がつきました。

それは、やはり、最初の大学受験に向けての重い重圧の中で過ごしていた高校時代でした。当時、期末テストのたびに全精力を振り絞り、その終了後は、大阪のターミナル駅にあった大型映画館で映画を見るぜいたくを自分に許していました。(その映画鑑賞後、決まって軽い発熱と倦怠感に襲われ、寝込んでしまうような虚弱な高校生でした・・。)
その中でも、初めてミュージカルなるものを見て、音楽の素晴らしさを初めて深く感じたのが、世界的なヒット映画として今でも学校の教材にまで使われるほど有名になった The Sound of Music でした。
その中で、Trap大佐との結婚について修道院の院長に報告した 主人公 Maria に対し院長が彼女を励まして贈った曲 で、Trap 一家がナチスの追跡を逃れてアルプス越えをするフィナーレで感動的に歌い上げられる Climb Every Mountain という曲の中で、やはりこの byway という言葉が現れます。(演奏はこちら

Climb every mountain Search high and low
Follow every byway Every path you know
 すべての山に登りなさい 高くても低くても
 あなたが踏み込んだどんな脇道、どんな小道も歩きなさい
Climb every mountain Follow every stream
Follow every rainbow Till you find your dream
 すべての山に登りなさい すべての小川を辿り
 すべての虹を追いかけなさい あなたの夢を見つけるまで
A dream that will need All the love you can give
Everyday of your life For as long as you live
  あなたが生きる限りの その人生の日々に
 あなたの愛のすべてを 捧げる夢を見つけるまで
Climb every mountain Follow every stream
Follow every rainbow Till you find your dream
 すべての山に登りなさい すべての小川を辿り
 すべての虹を追いかけなさい あなたの夢を見つけるまで

高校時代、この The Soud of Music で初めてミュージカルに触れ、その感動から、次々にミュージカル作品を見ることになりました。もう一つ、印象深いのは West Side Storyだったと思います。
高校時代の音楽的記憶は、やはりこの The Sound of Music に尽きるでしょうね。当時、この映画の熱狂的なファンが現れて100回以上見たとか言うツワモノも現れ、一種の社会的現象にすらなりましたが、私も複数回見て、そのサウンドトラック版のLPが私が初めて自分の小遣いで買った音楽アルバムでした。このLPも本当に擦り切れる位、聴き、英語の歌詞カードもボロボロになりました。このLPの曲は(人形劇の歌、などは別にして)全曲、今でも英語で記憶していると思います。

それにしても、ジャンルも雰囲気も全く異なる2つの曲で、同じbyway という言葉が現れ、人生の byway をしっかり生きよう、あるいは、注意深く生きてきた、と歌っているのは、意味深いです。人生って、結局、何が main streat で、何が byway なのか、終わりの時まで分からない面もありますからね。どんな時間も大切に、自分らしく生きて行きたいものです。

(おまけのおまけ)

これはもう音楽の記憶の歴史とは離れてしまいますが、私にとって面白い遊びの一環でしかなかった新しい分野の知識探求が、重いプレッシャーのもとでの『勉強』に変わってしまったのは、中学校時代の後半位からでしょうか。
兵庫県の山深い田舎で過ごした小学生時代、父親の昔の友人という方のご厚意で、律儀に毎月送られて来た学習雑誌が、偶々その方の思い違いで1学年上のものだったのですが、学校でまだ学ばない知識を先取り出来ることがうれしくて、隅から隅まで読み通した記憶があります。田舎の小学校の小さな図書室にあった蔵書をすべて読み尽くしたことで、校内の話題になったこともありました。当時、母は紡績工場の女子寮の舎監として働いており、共に暮らしていた会社の娯楽室にあった大人向けの小説などを手当たり次第に読んだ記憶もあります。母の転職で一人尼崎の親戚の家に預けられていた頃、学校が終わると近所の駄菓子屋で買ったささやかなおやつを持参して、市立児童図書館に直行し、その蔵書を読むことが楽しい日課だった頃もありました。

しかし、中学生の半ば位から、私は自分の置かれている家庭環境や経済的状況を自覚するようになりました。持病を抱え病弱だった母親の細腕で何とか維持されている家庭に生まれた自分にとって、お金のかかる私立コースへの進学はありえない、ということがしっかり分かってきました。過去の豊富な読書量のお陰か、常に学年のトップクラスにいた私としては、何としても公立進学校の名門校へ進みたいという意欲が芽生えて来ました。ただ、私の家庭状況では、お金のかかる私立校を滑り止めにするという選択はありえないことでした。それまで、ただ自分の知識欲を満たす楽しい活動だった学習が、重圧のかかる難行になってきたのは、この頃からでした。高校受験の準備が始まる中3になった春、私は年間の学習計画を綿密に立て、学習分野の隅から隅まで舐め尽くすような徹底的な準備を進めました。何としても公立の名門校に入りたい、しかも絶対に公立校に合格しなければ進学のチャンスは無い、という状況への自覚から徹底した学習に集中したのです。その結果、希望する公立名門校の入試でトップ合格する、という結果を得ました。しかし、そのことが私の学習生活にさらなるプレッシャーを生むことになりました。主席合格者として恥ずかしい成績は残せない、という思い、そして、進学校の学生として当然の国立難関校への挑戦という次の課題が現れました。その時代以来の厳しい日々の、ささくれ立った心を癒し、人間の心の豊かさを忘れないようにしてくれたのは、数々の音楽だったことに、今、気づかされます。

本来、今まで知らなかった新しい知識を獲得し、新しい世界を知る、という活動はワクワクした楽しい活動のはずです。それがいつの間にか重い重圧のもとでの難行苦行になることは悲しいことだと思います。

幸い、現在の私は、そのような現実生活の重いプレッシャーからは解き放たれた状況の中で、新しい世界の探求を純粋に楽しめる状況にあります。今もまた再び新しい挑戦の日々ですが、それは過去とは異なり、知的開拓としての楽しい挑戦です。この時間をしっかりと味わい、大切に過ごしたいと思っています。

(おまけのおまけのおまけ)

上にも書いたように、本来、今まで知らなかった新しい知識を獲得し新しい世界を知る、という知的探究はワクワクした楽しい活動のはずです。世に色んな形で、何の見返りも報酬も伴わなず、誰から強制された訳でもないのに、自分の興味にのみ従って、ある分野の知識を漁り、その事自体を楽しむいわゆる「オタク」は一杯います。

ところが、この本来楽しいはずの知的探究が、学校のお受験や資格試験などの勉強では、その見返りに得られるモノへの執着のために変質して、難行苦行に陥ってしまうのは哀しい事です。『強いて』『勉める』と書く『勉強』とは何とイヤな語感の言葉でしょう。殊に、世界に冠たる勤勉民族である我が日本🇯🇵では、何やらあえてそのような難行苦行で苦しむ事自体を一種の精神的修行として、まるで滝に打たれる滝行などと並列視するマゾヒズムが蔓延しているように思います。

そのような我が国独特の伝統的精神風土に加え、近代資本主義社会がもたらした価値観の倒錯という深い問題もあります。この問題については、高校時代に読んだ『近代人の疎外(パッペンハイム)』〈岩波新書〉から強烈な示唆を受けた事を覚えています。この本の中で著者は、〈近代資本主義社会の中では、人間の追求のあらゆる行動が無意識のうちに貨幣で測られる価値に置き換えられてしまう傾向がある〉と言います。その結果、近代資本主義社会に生きる人間は、物事の本来の価値、喜びを心から感じる事から「疎外」され、結局、物事を貨幣価値でしか判断出来なくなり、生きる事の意味を失い、本来の自分からも「疎外」されてしまう事になる、というのです。「疎外」の原語に当たる「alienation 」は、いわゆる「エイリアン」で、〈他所から来た〉、〈よそよそしい〉と言う意味から転じて哲学用語としては、〈自分本来の感覚を無くす〉〈自分を自分らしく感じられない〉と言うような意味とされています。

つまり、資本主義の貨幣経済社会の中で、人々は、自分が取り組んでいる事そのものへの興味や情熱が、いつの間にか、その結果が生み出す貨幣価値への執着に転じて〈要するに、お金儲けに走ってしまって、と言う事です(涙)〉本来そこから得られていたはずのやり甲斐や生き甲斐を見失ってしまうと言う鋭い分析です。そして、近代人は、自分が日々取り組んでいる事に本来の喜びや意義を感じられなくなって、自分が何をしているのか分からず、自分が自分でないような「よそよそしさ」の感覚に陥ってしまうと言うのです。

高校時代、この本から得た強い示唆は私の頭の中にずっと残り続け、その後私は、絶えず、今、自分がやっている事は何であるのか、どういう気持ちで取り組めばいいのかを自問自答する習慣を持って来ました。

そう言う意味で言えば、少なくとも、現在の私は、自分が取り組んでいる事に十分満足しており、やり甲斐、生き甲斐を感じており、少なくとも「近代人の疎外」からは辛うじて逃れているのかなぁと思えます。

(ここまで、読み通して頂いた方には、その根気強いお付き合いに、心より感謝申し上げます🙇‍♂️)

 

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科卒業。同大大学院経済学研究科修士課程卒業、博士課程在学中。