Time is NOT money?

10年以上前に、歯科医師会組織の中で一緒に仕事をしたメンバーの間で、今も続いている不思議なネットグループがあります。そのネット会議室で私の大学院生活を報告していて、あるメンバーからもらった言葉をキッカケに考えたことをまとめてみました。
 Hさんが書きました:      >先生、なかなか楽しそうですね。(笑)

確かに今の生活を、これまでの経験では無かったような気持ちで、楽しめています。それはおそらく、これまでになく自分の時間を持てていることによるのだろうと気がつきました。

若い頃からずっとお金時間は両立しないんだろうな、と漠然と思っていました。お金時間は、どっちかを選ぶとどっちかを失うという(経済学的用語を使うと)『トレードオフ』の関係にある、と思っていました。でも、最近は、そうでもないのかなと思い始めています。

“ Time is money “とか何気なく言いますが、改めて考えると、お金時間とはその本質が全く違います。ある意味では、” Time is NOT money at all “というべきかもしれません。
貨幣経済社会では、
お金はほとんど何とでも交換可能に見えます。(実際はそうでもありませんが。例えば、若さとか、人の気持ち、とか・・・お金で買えないもので重要なものは色々あります。)

お金は無限に集めようとすれば(可能性としてだけですが)無限に追い求められます。でも、お金を追いかければ際限がありません。お金を追いかけていると、いつの間にか、追いかけているのか、追いかけられているのか、分からない状況に陥ったりします。
そして、誰にも平等に与えられている
時間を確実に失います。

時間ほど、どの人間にも限りなく平等に与えられているものはありません。モナコで遊ぶセレブでも、深夜コンビニで働くパートタイマーでも、その所有する時間は、完全に平等です。
時間はストックすることも、取り戻すこともできず、手の指のすき間から流れ出す砂のように不可逆的に、一方向的に流れ去ります。


お金持ち時間持ちとどっちが幸せなんだろうと考える時があります。
私が今、実感として思うのは
<自分の人生にこれから残された時間を(極端なゼイタクをしなければ)楽しんで生きられる程度のお金(経済的ストック)が出来れば、どんな人間にも完全に平等に与えられている時間を、お金のためではなく自分のために、たっぷり使える方が幸せな人生なのかもしれない>ということです。
(自分の人生のために必要な分以上の)
お金のために失った時間は、永久に流れ去ってしまって、どれだけのお金を積んでも買い戻せません。

そして、お金と時間はトレードオフするのか、という問題に対して、現時点での私の答えは『人生のある状況では、お金時間は確かにトレードオフすることが多い。しかし、トレードオフしない状況を作ることは可能である。ただし、そうするかどうかは本人次第である。』というものです。

トレードオフしないと感じられる現在の私の状況は、ある意味大変恵まれたものであり様々な幸運と巡り合わせもあるのだろうと思います。
しかし、周りを見渡してみると、ホントはトレードオフしてないのに、ずっと長い経験から惰性的に、そう思い込まされているように見える方たちがたくさんいるような気がします。

お金の話になるといつも思い出すのはギリシャ神話のミダス王の伝説です。
黄金が何より好きで、宮殿を黄金の装飾品で飾ることで満足していた王は、ある時、魔法で自分の指先が触れたあらゆるものを黄金に変える力を授かります。ところが、用意された豪華な食事を食べようと、食べ物に触れると、食べ物は全て、黄金の塊に変わって食べることができません。訪れて来た最愛の娘を出迎えて彼女に触れるや、娘は黄金の彫像になってしまいます。王は自分が授かった魔法が、実に恐ろしいものだったことに驚き、嘆いた、というものです。<(ミダス王の)The Golden Touch>として有名ですね。


これは富の象徴である黄金、つまり、お金の価値についての示唆に富む寓話と思われます。

考えてみれば、金 (ゴールド) というものも不思議な存在で、それ自体には、これと言った用途はありません。一つには、人の目を魅了する鈍い光を放ち錆びることのない材料として装飾品に使われるという用途が中心です。いや、私が働いてきた歯科業界では、もう一つの用途として、歯の詰め物や被せ物として、延性・展性に優れ(薄く延ばせる、適度に柔らかい)変色・変質しない材料として、近年セラミック素材とその最先端加工技術が登場するまでは、いわゆる自費診療の中心でした。それ以外に、私が歯学部を卒業した当時の30年ほど前では、健全な前歯をあえて削ってギラギラ光る金の被せ物を着けて経済的余裕を誇示するという日本独特の価値観がありました。今から思っても悪趣味な一種の風習で、私自身はそういう治療(?)はほとんどやったことはありませんが・・・。
 そんな単なる金属材料がなぜ、人類の有史時代以来一貫して富の象徴として崇められてきたかと言えば、それは専ら、その高い交換価値によるものです。ゴールドは有史以来、一貫して、多くのものとの交換が保証されている貨幣そのものでした。1971年、当時の世界の基軸通貨であった米ドルが、ついに金の裏付けをなくし、その価値を急落させた、いわゆるニクソン=ショックにより、国家が発行する通貨が金の裏付けを失いました。しかし、人類の経済的発展の長い歴史の中で、金は常に価値の基準として通貨の中心であり続けましたし、各国の政府が発行する貨幣との公式のリンクから切り離された今も、常にインフレ傾向によって価値が減少し続ける紙幣に対し、金の、インフレに強い安定的資産としての地位が揺らぐことはありません。金を保有することは、経済社会が産出するあらゆる多様な財貨を手にすることができることを意味しました。

現代の緻密に構築された会計学の基本に、会計学が前提とする基礎的公準なるものがあり、その一つに『貨幣的評価の公準』があります。会計学は、現代社会の膨大で複雑きわまりない経済活動を普遍的でシンプルな形に分析、表現する驚異的な技術ですが、そのスタート時点で、全ての経済活動を貨幣的基準で測定、表現するという形で、貨幣に換算出来ない事象を全て切り捨てて出発します。つまり、会計学の世界では、貨幣の価値を基準とした評価が出来ないもの、つまり、お金と交換出来ない、お金で買えないものは対象外なのです。この事は重要で、要注意です。

膨大な歴史的データを元に書き上げた大著『21世紀の資本』がこの種の硬い研究書としては珍しく世界的ベストセラーとなり、各国で論争を巻き起こしているフランスの気鋭の経済学者 Thomas Picketty の研究においても、個人所有の住宅すらデータに含めているのに対し、彼が格差解消のカギの一つとしている個人の教育的資産や人的ネットワークは対象外です。これもまた、貨幣的基準で評価出来ない事がその理由のようですが、これが彼の研究のアキレス腱にならないか、懸念がなくもありません。

経済活動の世界では、その発想、思考は、基本的に、会計学的なフレームワークの中で行われます。その会計学は貨幣で買えないものは全て無視しているのです。しかし、人生で重要なもので、お金で買えないものは色々あります。その絶対的な代表が『時間』です。

昭和の経済界の巨大な偉人の一人とも言える松下幸之助は、ある時『私がもう一度青年時代に戻れるなら、それがどんな貧窮した生活であろうと、私の現在の全財産を投げ打っても惜しくない』という趣旨の発言をしています。彼は、若さが買えない、というより、時間という不可逆的なものは、どれだけの財貨を積もうと買えない、と言ったのです。

Time is money ではありません。(勿論、それは『時間は貴重なものだから無駄にしちゃいけないよ』という常識的な教訓と考えるべきでしょう。)
しかし、やはり、正確には、” Time is NOT money “です。

Time is something that cannot be bought;・・・・and it is not in endless supply, Time is simply how you live your life. (Craig Sager )
時間は買うことのできないものである。・・・そして、それは無限に与えられるものではない。時間とは、要するに、あなたの人生の生き方そのものである。(クレイグ=セイガー )

以上、久しぶりの哲学談義でした。

にしても、会計専門大学院に入学して1か月、頭の中に経済学的、会計学的思考が染み込んできた気がする今日この頃です。

モザイクから望む神戸の象徴的光景

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科卒業。同大大学院経済学研究科修士課程卒業、博士課程在学中。