小動物の群れが巨大怪獣を倒した日(3)

1984年、初代 Macintosh 発売の頃、革新的な個人向けのコンピュータとして、そのユニークで自由なコンセプトの製品作りは世界中のユーザーから注目されていました。
創業者スティーブ=ジョブズは、あるインタビューの中で、個人向けのコンピュータを「知的自転車」〈Wheels for the Mind〉と考えるコンセプトについて「それゆえ、僕はパーソナルコンピュータを自転車に喩えたいのです。なぜなら、それは人間が生まれながらに持つ精神的なもの、つまり、知性の一部を拡大する道具だからです。」と言っています。そう言う明確なコンセプトを持ち、それにどこまでもこだわり、そのコンセプトを実現するために無理難題とも思える技術的ハードルを乗り越えようという強固な意志を感じて、多くのユーザーが共感したのです。

                  

Steve Jobs に率いられ<『知的自転車』としてのパーソナルコンピューター>という理想を目指す企業は、1990年、その高価格路線を転換し普及的価格帯の新製品を矢継ぎ早に発売し大攻勢をかけます。その皮切りとなったMacintosh LC (Low-cost & Color の略と言われた)を購入してから、私は Mac World にハマり、Mac Fan として、Mac Life を生きることになりました(いずれも当時発刊された Mac 専門誌の名称です)。
この初めてのMac を買った時のほろ苦い思い出があります。その頃、私はさほど重大なものではないながら人生で初めての入院手術を受けました。運悪く、そのオペの翌日にMacが納品されたのです。担当医の先生からは、麻酔の後遺症が出る懸念があるので、数日の安静を命じられていたのですが、どうしても納品されたばかりのMacに触れたくて、車で5分ほどだった自宅まで運転して外出帰宅しました。天罰てき面、その翌日から、私は強烈な麻酔後遺症の頭痛に襲われることになります。まあ、それだけ、Macの魅力が強かった、ということなんですが・・。

もはや、没個性的で、目先の現実への対応に終始し、殺風景な業務処理用の機械と化した MS-DOS パソコンの世界には魅力は感じられませんでした。Macの世界のカルチャーは、ある意味、当時のアメリカの知性の良質な部分が集約されていたように私には感じられました。同じ仕事をするのに、過去や周りのやり方に縛られず、自分が納得できる行き方や方針を貫こう、同じ仕事をするのに、できるだけスマートに、遊び心を忘れずにやろう、仕事もまた大切な人生の時間の一部なんだから。そう言う個性やオリジナリティを大事にする姿勢、仕事も楽しんじゃおう、と言う心の豊かさが随所に感じられました。

1990年代の前半は、まさにMacの快進撃が続いた時代でした。LCを皮切りに、半年おき位のペースで、次々に新製品が発表され、この革新的な『知の自転車』で乗り回せるフィールド、つまりアプリケーションソフトも、どんどん増えていきました。ちょうど夢のマイホームも実現し、広い書斎スペースも確保した私は、発売されるMacの新製品を次々に大人買いし、我が書斎は、さながらMac ショールームと化しました。珍しさで記憶に残っている機種の一つにDuo Dock というものがありました。外に持ち出す時は、(当時としては、画期的なコンパクトさの)ノートになり、部屋で使う時は、このノートを収納するDock Stationにドッキングさせると、そのまま、デスクトップ機になる、というユニークなコンセプトの製品でした。(ノートのスペック不足で、あまり売れなかったように記憶していますが、、)

                  

当時のラインナップの最上位機種であった重厚なデザインのタワー型マシン Quadra 950 が我が書斎に収まった時の感激と満足感は今も覚えています。

(これは、やや余談めきますが、Macの製品群のユニークさは、本当に際立っていて、例えば、2000年8月に発売されたMac Cubeといわれたシリーズはその名の通り、約20cm)の立方体型の筐体で、シルバーの筐体は透明のポリカーボネートで覆われており、筐体の下部分は透明のポリカーボネートのみでシルバーの立方体が宙に浮いているように見える独特のデザインで、外部への接続部は目立たないように底部に集められていました。もちろん、すぐに購入して主力機の一台として活躍してもらった後も、そのコンパクトさから、サーバーマシンとして活用し、その役目を終えた今も、部屋のインテリアとして生き長らえています。)

私は新しい『知の自転車』で遊べる新しいフィールドを駆け巡る日々を過ごしつつ、周りの友人知人に片っ端から、Macがいかに素晴らしいかを説いて回り、古臭いコンセプトのMS-DOSマシンから改宗して、Macの幸せな世界(?)に入るよう勧めるMacの伝道師になりきっていました。当時このようなボランティア Mac 伝道師がいたるところに現れていたと思います。その後、2002年には、SanFranciscoで開かれたMac World Expo という祭礼に参加し、 SanFrancisco 郊外 Cupertino にある大本山(本社)に参詣するような信仰心篤い信者だったのです。

Mac の快進撃に歩調を合わせるように、様々なオリジナルな発想に溢れたアプリケーションソフトが発売されていきましたが、カラフルなグラフィック=インターフェイスを持ったMac のアプリケーションとしてパソコン利用の新しい世界を切り拓いたのが、Desk Top Publishing(DTP)と言うページレイアウトソフトでした。単なるワープロ機能を超えて、画像と文字データを自由に配置して、文字通り卓上(Desk Top)で、印刷物を自由に作り上げてしまう(Publishing)と言うものでした。

ちょうどその頃、歯科医師会で広報担当として会報作りの仕事に取り組み始めていた私にとって、この状況はまさに渡りに船で、早速、渋る委員会メンバーを説得して、広報誌のDTP化に取り組みました。
ここでも、仕事を人に丸投げしてブラックボックスを通しての結果を待つ、ということがイヤだという私の性癖が出たようです。この性癖は、開業直後の会計 DIY 問題に始まり、この DTP から、さらに自宅の建築の際の図面作成(JW_CAD)、診療所建築の際の 3D バーチャル=シミュレーション(Virtus VR)、さらにインターネット黎明期のホームページ自作、などにつながっていったようです。

当時(今もなお?)会報などの印刷物の制作は、原稿用紙に書いた文字データと各種の写真やイラストなどを印刷会社に預け、その紙面レイアウトはすべて一任する、というものでした。その作業をコンピュータを使って自分たちで自由にやろうという私の提案に対し、保守派の委員会メンバーからは、『そんな新しいことをしても、次の委員会メンバーがいつもパソコンを使える人になるとは限らない。だから、新しいことをやっても長続きしなければ、意味が無い』という誠にもっともな反対意見が出ました。しかし、Macを使ったDTPをやってみたかった私は、いつも同じような会報ではなく、新しいイメージの会報作りをするべきだと、意見を通し、幸い発注先の印刷会社が時代を先取りすることは業務改善に役立つと、協力的だったこともあり、DTP体制が出来上がったのです。その後、私は県の歯科医師会での情報システム担当に転じたのですが、保守派の反対意見とは裏腹に、その後の委員会の若手後継者は、私たちが作ったシステムを引き継ぎ、現在に到るまで、DTP 体制は続いているようです。
<西明石の小林総一郎先生、ありがとう!>

なお、1993年当時DTPについて書いた会報投稿が残っています。記録はこちらです。

(またまた長くなりました。恐竜と小動物群の対決は間もなくですが、一区切り置きます。)

 

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科卒業。同大大学院経済学研究科修士課程卒業、博士課程在学中。