忖度(そんたく)民主主義?

 私の激動の青年時代、両親をなくし資産も無く貧しかったけど、当時そんな家庭的に恵まれず貧しい若者は一杯いたし、そういう若者を後押しして励ましてくれる空気が社会全体にありました。皆んな貧しいけど、チャレンジして頑張れば道は開けるさ、という空気が満ちていたように思います。私が大好きな日本人歌手の一人、坂本九の名曲『明日があるさ』は、そんな時代の空気を見事に表現していたと思います。<彼女にアタックしようと思ったけど、今日も出来なかった。でもいいや、明日があるさ>って、いいじゃないですか。若者の特権は、チャレンジすること、挑戦して失敗してもめげないことが若者らしさ、だったはずです。

 しかし、いつの間にか、そんな空気は変わっているようです。<先読みして無駄な努力はしない、先は分かってるのに、悪あがきするのはみっともない、周りを見渡し空気を読んで、余分なことは言わないし、しない>、そんな若者が増えている、と言う話に、シニア院長は、内心憤慨するのです。

 今春から、大学院に入学して、まさに今を生きる青年達と机を並べて学んでいて、少し気になることがあります。それは学生の皆さん方が、本当に礼儀正しく、大人しく、よく勉強もされているのですが、自ら発言し、自分から意思表明されることが少ない、という事です。文系分野特有のゼミという少人数クラスの授業形式があります。ややもすると、講師からの一方向的情報伝達になりがちな講義形式の授業を補う意味で、一冊の研究書を5、6名の少人数グループで分担発表した後、教授を囲み、全員で双方向的な意見交換を行うことが前提の時間です。皆さん自分の担当部分は、的確に要領よくまとめて発表されるのですが、その後の意見交換の場では発言がほとんどありません。時として『周りを気にせず、空気を読まない、図々しい』学生である私一人が、教授と問答させていただくことがあり、これではゼミの趣旨が意味を成さないのではないか、と思う時があります。

 国際会議の場での日本人出席者についてのよく言われたエピソードがあります。国際会議などで、概して日本人出席者は、きちんと出席し、いつもニコニコ微笑みを浮かべて他の出席者の意見を熱心にメモを取ったりして聴いている、しかし滅多に発言をせず自分の意思も表明しない。そのうち、段々、日本人が何を考えているのか分からない、と言う不審感が生まれ、日本人は不気味だと言う評価につながってくる、と言うのです。そんなことをゼミ前の休憩時間に可愛い女子学生に話しました。大いにうなずいていただいたのですが、これから変化が生まれるでしょうか・・。

 大学だけではありません。歯科医師として、様々な関連組織の活動にも加わらせてきましたが、それらの組織活動でも同じ現象が見られます。出席するメンバーの方々はみな、大変真面目で、出席率もよく、会合でも、熱心に話を聴かれるのですが、本人からの自主的発言がほとんどない、という状況に直面することがしばしばでした。皆さん、周囲を見渡し、空気を読み、不用意な発言で災禍を招かぬよう、細心の注意を払うという感じです。

 この問題は、日本の教育の大変根深い所に起因していると思わざるをえません。日本の初中等教育では、先生は優しい顔をしておられても、絶対的権威者です。児童、生徒たちは、その権威者から教えられる知識をひたすら忠実に覚え込むことを求められます。自分勝手な解釈や意見を挟むことは、基本的に許されないのです。形だけ、『あなたは、どう思うの?』とか聞かれても、うっかり自分勝手な解釈や思いつきを言うと、先生はいい顔をされません。どんな質問をされても、その質問に対しての模範解答が暗に存在し、その答えをする必要があるのです。子供は大人たちが考える以上に、年長者の表情を読むことに敏感です。そうやって、権威に忠実で本当の自分の意思を持たない日本人のプロトタイプが量産されるのだと思います。日本の教育では、早い段階から、ユニークでオリジナルな個性は、排除され、潰され、権威に従順で自分の意思を持たない、非個性的な人材ばかりが産み出されるように思います。そんな人材では、他国で開発された新技術や革新的システムをいち早く取り入れ、それを磨く、というキャッチアップ型の仕事はできても、世界の人々を魅了するような新製品、アッと驚くような画期的システムを産み出す独自の開発は出来ません。

展示会巡り等が好きだったシニア院長

 昔から、読書感想文、というものの評価が不思議でした。読書の感想文、ですから、その本を読んで、何を感じたか、を書かれなければ意味は無いはずです。ところが、小学校時代以来、友達の書く読書感想文が、どう読んでもその本の要領のいい要約だけで終わっていることがしばしばありました。「それって、読書感想文じゃないんじゃないの?」と子ども心に思っていましたが、先生は、何も言われません。いやむしろ、十分な合格点を付けられるのです。(私が先生なら、0点を付けて、子供を泣かしていたでしょうね<笑>。)それは、本当にずっと疑問でした。日本の初中等教育では、人の意見の丸写しや要約であっても、コツコツ努力したと言う diligence (勤勉さ)が評価される一方で、個性が発揮されたユニークさ、オリジナリティ、といったものは、あまり評価されないどころか、場合によっては、はねつけられ、否定されます。
 先進国の技術を模倣し、後追いしていたキャッチアップの時代ならともかく、そんな後進国的な、いや開発途上国的な基礎教育をして、Mac や iPhone のような、世界の人々を惹きつけるような魅力ある新商品を開発したり、Google のような誰もが想像もしなかったような画期的な新システムを産み出すような人材は育つのでしょうか。大いに疑問です。

( 最前列中央が若き日のシニア院長 )

 そう言えば、今でも忘れられない記憶があります。中学校の修学旅行の準備説明会のことでした。当時、大阪の下町の中学校で、旅行先は、東京でした。一通り説明を終えた後、教頭先生が、全員に『自由時間に、どこか行きたい所があるか?』と聞かれたのです。当時、古い本が売られている古書店に興味があった私は、無邪気に手を挙げて『神田の古本屋街に行きたいです!』と言ったのです。(まあ、あまり中学生らしくない、可愛げなの無い希望だったと今でも思いますが。)その時、教頭先生が言われた言葉が今も記憶に残っています。先生は、「学年代表(でした)である君が、何ということを言うんだ。こんな時は、ありません、と答えるもんだ」と言われたのです。私は大いに不満で、内心「だったら最初から聞かないでほしいな」と思いました。

(もし、この拙文を小中学教育に関わっておられる関係者の方が読まれ、それは違う、誤解だ、と言うご意見があれば、どうぞ、お寄せ下さい。)

 でも、こんな経験を積み重ねていくうちに、日本の社会の中の、<空気を読む、目配せで合図する、周囲を見てそれに合わせる、できるだけ目立つことはしないし、言わない>といった暗黙の了解の隠微な世界が段々、分かってきました。その後、私は、4年間、英語圏の文化に関わる学習をしたわけですが、日本の大人の世界にあるらしい不合理で、陰湿な、暗黙の上意下達の世界がどうしても好きになれませんでした。考えてみれば、私の英語学科の卒業論文のテーマは『東洋と西洋の思想的背景』というようなものだったと思います。そんな小難しいテーマを英文で書いた訳ですから、指導教官からは、『どうも何を言いたいのか、判然としないんだが・・』というような講評をいただいた記憶がありますが、自分でも何を書いたのか、全く記憶にありません。でも、とにかく、日本の社会の『もの言えば、唇寒し・・』というような陰湿な風土が嫌でしょうがなかったことが背景にあったと思います。結局、私が外資系のIBM社の内定をもらったり、独立自営できる専門職の分野に挑戦したのも、そういう思いが背後にあったように思います。

 しかし、どこまで行っても、日本の社会です。歯学部を卒業して、助手として勤務した大学を辞めたのも、やはり日本の組織内に潜む不合理性に反発したことがきっかけでした。

大学医局の(集団脱走??)仲間

 個人がきちんと自分の判断と意見を言い、ディスカッションを通して結論を導き出し、その結論を全員が受け入れる、と言うのが、欧米諸国に根付いた自立した個人による民主主義であると、中高時代位に知識として学んだ記憶があります。当時の純真な私は、やっぱり欧米先進国は違うなぁ、だから日本はダメなんだ、と心から思いました。そして、大学に入った頃でしょうか、そういうふうに、個人がしっかり自立して、自分の意思や判断をする社会の背景としては、やはり、キリスト教文化が深く浸透していることで、個人が神と直接向き合っているという精神風土があるからだ、というような議論を読んで、なるほど、と思った記憶もあります。

 しかし、今では、そんな哲学的な理由ではないような気がしています。案外、単純に、集団農耕社会と狩猟牧畜社会の集団原理が長く根付いているのではないか、と考えたりします。

弥生時代から始まった日本の集団農耕社会では、年間の一定の時期に、集団で一斉に農作業にかかる必要があります。そこでは、個人の意見や希望など関係ありません。全員が一斉に、できれば一糸乱れず、一定期間内に、その時期の農作業を終えなくてはなりません。そんな団体行動の中では、メンバーが勝手な行動をしたり、てんでバラバラなことをするのは、作業効率を落とす我がまま、ということになります。そういう勝手な人間は、目配せの合図のもと、集団からはじき出されるのです。そういう農耕社会が何世紀にもわたって続いてきているわけです。

一方、狩猟や牧畜の世界では、そんな集団行動は必要ありません。獲物を相手に、瞬時の判断で、これを捕獲しなくてはなりません。その判断力と行動力の優れた人間が評価されるので、集団に馴染むかどうか、よりは、独立した思考や判断力が評価されたのではないか、とごく単純化して考えてみたりします。
 以上は、素人社会学者が思いつきで考える社会的背景です。まあ、問題はそれほど単純ではないでしょうが。

 とにかく私は、権力ある人へのおべっかや、いわゆる『忖度(そんたく)』、したり顔の目配せ、排除対象の人間へのシカト、といった陰湿な集団内の行動が大嫌いです。専門職に就き、開業自営しても、やはり日本社会、いろんな機会に、そういう場面に遭遇し、反発して生きてきたように思います。私の目には、日本にあるのは自立した個人がお互いを尊重し合う本来の民主主義ではなく、暗黙のうちに、お互いを牽制しあい、権力や権威におもねり、異質分子を排除する、建前だけの似非(えせ)民主主義、言わば『忖度(そんたく)民主主義』ではないか、と思う時が度々ありました。

 これも忘れられない鮮烈な記憶に残る状況があります。ある大きな組織で、その長を決める選挙がありました。私が属する小グループで、この選挙に対する姿勢を話し合う会合が開かれました。その席上、当然選挙のテーマとなるはずの、肝心の組織運営に関わる政策や方針等の具体的な議論は何もないまま、最後に実務リーダーが発した言葉は『我々は皆んな同じ船に乗るメンバー同士だ。この際、何も言わず、すべて船長に任せよう。みんな同じ方向で行こう。』と言うものでした。つまりこの小グループの長が決めた候補者に全員、投票しよう、と言うのです。私は呆れました。それでは選挙というものの意味が無いではないか。各個人に与えられた投票権の意味は何なんだ、と思いました。意を決した私は、発言を求め、選挙を単なる権力闘争にするべきではない、候補者同士、政策論争をしてもらい、その論争の資料を元に、各人が判断すべきではないか、と言いました。小グループの船長は、苦い顔をしながらも、『それはもっともです。じゃあ、先生、その政策論争の土台を作ってもらえますか?』と言われました。まあ、こうなることが嫌で、みんな発言しないんですよね。でも、言い出した以上、腹をくくって、この小グループから各候補者への公開質問状を作成する役割を引き受けました。この会合が終わった後、ある先輩から言われた言葉も忘れられません。『松賀君、君の言うことは理屈ではよく分かる。でも何か違うんだよなぁ。世の中、理屈じゃないことってあるんだよねぇ。』というものでした。先輩のありがたい助言でしたが、私は憤慨しました。

ところが、この公開質問状とそれに対する回答は小グループ内だけに止まらず、選挙活動の熱気の中で、あっと言う間に外部に拡がり、その内容が選挙結果に影響した、というウワサもありました。

 いや、昔話が思わず広がりました。私が言いたかったことは、『皆さん、特にこれからの日本を支える若者の方々、もっと、あらゆるところで積極的に発言しましょう!周りを見渡して、空気を読んで、目配せして、おし黙るような<大人な>態度はやめましょう!外国人から不気味な日本人、と思われないように(笑)しましょう!

 次代を担う世代の方々にさらに言えば、ただ人の考えをなぞったり、まとめたりするだけではなく、自分の頭で考え、自分の意見や見解を持ち、現状をただ継続するのではなく、新しい取り組みに挑戦して、今までに無かったものを生み出して下さい!と言う事です。次の時代を担う方々、どうか、よろしくお願いします。

投稿者:

matsuga_senior

《松賀正考》大阪大学外国語学部英語学科、歯学部卒業。明石市で松賀歯科開業。現シニア院長。 兵庫県立大学大学院会計研究科卒業。同大大学院経済学研究科修士課程卒業、博士課程在学中。